【就活時事#3】100回目の甲子園が開幕!100年の歴史の中に潜む意外な事実とは

全国高等学校野球選手権大会、いわゆる「夏の甲子園」が今年も開幕しました。今年は第100回の記念大会ということで、例年以上に注目を集めています。今年は各地で猛暑が続いているため、スタンドでテントを使ったり、ナイター開催にしたりするなど、運営側は例年以上に熱中症対策を積極的に行っていますね。

ときに「スポーツではなく祭礼」とも評される高校野球。100年の歴史を振り返れば、面接での時事ネタにもなれば、日本という国の文化を考えるきっかけにもなるかもしれません。今回はそんな高校野球と甲子園の豆知識を紹介したいと思います。

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f:id:hito-contents:20180806131556j:plain出典:fotolia

夏の甲子園は、甲子園球場で開催されなかったことがある?

冒頭でも述べたように「夏の甲子園」とは通称であり、本来の正式名称は「全国高等学校野球選手権大会」。「夏の甲子園」とは、会場である「阪神甲子園球場」の通称「甲子園」が季節と組み合わさって大会の愛称となっているわけです。

しかし、大会発足当初の会場は甲子園ではありませんでした。第1回と第2回は大阪の「豊中グラウンド」、第3回から第9回までは兵庫の「鳴尾球場」で開催されていたのです。しかし、年々高まる人気に球場の観客収容人数が限界を迎えます。こうして専用球場建設の機運が高まり、1924年に誕生、同年の第10回から大会会場として使用されたのが甲子園なのです。

f:id:hito-contents:20180806131741j:plain現在の甲子園球場(出典:pixta)

さらに甲子園の完成に伴い、同年に名古屋の「山本球場」で第1回大会が開催されていた「選抜高等学校野球大会(通称:春のセンバツ)」も、翌年の第2回からは甲子園が会場となりました。また、余談ですが、終戦直後には甲子園球場をGHQが接収していた時期や記念大会で試合数が増えた大会で西宮球場が使用、併用された年もあります。

ちなみに「甲子園」の名には球場の竣工年が関係しています。1924年は十干の最初である「甲」と、十二支の最初である「子」が60年に一度組み合わさる年。「縁起が良い」と球場名に用いられたのです。

さて、そんな縁起の良さが効いたのか、高校野球において「甲子園」という球場は大きな意味を持つようになっていきました。季節の風物詩になり得たのも、甲子園という舞台装置が、日本人の琴線を刺激する「おなじみの光景」を毎年のように演出し、定着したのが理由の1つでしょう。

敗者が甲子園の土を持ち帰るのはなぜ?

敗戦チームが涙を流しながら甲子園の土をかき集める姿。それは力及ばなかった選手たちの悲劇性、全力を出し切った満足感、仲間との絆と別れを象徴し、観客や視聴者の感情を揺さぶります。

この「敗者が甲子園の土を持ち帰る」という行為のルーツは、後にプロ野球で活躍、巨人の監督としては前人未踏のV9を達成した大打者・川上哲治(てつはる)氏。川上氏は1937年の夏の甲子園に熊本工のエースとして出場。準優勝に終わった決勝戦後にポケットに甲子園球場の土を入れて持ち帰り、自校のグラウンドにその土を撒いたといわれています。ただ、この説は決定的な証拠がないため他説もあります。しかし、日本野球史上に残る名選手が関わっていたことは、土を持ち帰る行為の広まりに大きく作用したでしょう。

他にも甲子園にまつわるエピソードには著名人が絡んでいる例が目立ちます。例えば、現在、各校応援団の席となっている「アルプススタンド」には、名付け親が芸術家・岡本太郎の父で、夏の甲子園を主催する朝日新聞の記者として甲子園を訪れていた漫画家・岡本一平であるという説(アルプス山脈のように高いスタンド、という感想から)や、勝利チームの校旗掲揚と校歌斉唱を提案したのが、春の選抜を主催する毎日新聞の社員で、日本人女性初の五輪メダリストであった人見絹枝であったこと(オリンピックの表彰式における国旗掲揚と国歌斉唱にならった)など。こうしたエピソードが今に語り継がれていること自体が、高校野球の長い歴史と人気を象徴しているようにも思えますね。

歴代の甲子園出場校や試合が、世界の歴史や文化を知るきっかけになる

歴史といえば、春夏の甲子園出場校の一覧を見ると、第二次世界大戦以前には「釜山中」「台北一中」「大連商」といった学校名を見つけることができます。これは当時、日本が統治していた朝鮮、台湾、満州の代表校。日本人のみというチームもあれば現地の人々と日本人の混成チームもありました。
なかでも1931年の台湾代表「嘉義農林」は夏の甲子園準優勝という快進撃を見せます。そのエピソードは2014年、台湾で『KANO 1931海の向こうの甲子園』(※邦題)という名で映画化され、大ヒットを記録。日本でも公開されました。

スポーツは競技自体の娯楽性が最大の魅力でありますが、選手やチームを通して世界の歴史や文化を知る副次的効果もあります。こうした「嘉義農林」の活躍を知ることも、当時の日本やアジア諸国の歴史を知るきっかけにもなるでしょう。

また、教科書に出てくるような社会情勢が理由となり、地方大会が開催されながら本大会中止になってしまったことも2度あります。1回目の1918年は米騒動の影響、2回目の1941年は太平洋戦争の激化がそれぞれ理由でした。特に後者については、結果的に1945年まで大会は中止となってしまいます。1942年には文部省が主体となった全国大会が行われましたが、文部省の方針により、あくまでも選手権とは別とされたため「幻の甲子園」と呼ばれています。

大会中止の間、過去の甲子園で活躍した選手たちの中にも戦争で命を落とした選手もいました。彼らの名は、現在、東京ドームにある野球殿堂博物館内の慰霊碑「戦没野球人モニュメント」に刻まれています。

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節目の大会で歴史を振り返ろう

第100回大会を迎える今年の夏の甲子園。節目の大会は、歴史を振り返るのに適した大会ともいえるでしょう。全員2000年代生まれの選手たちも、観戦者である私たちも、当たり前のように野球、スポーツが楽しめる日常と平和のありがたみを、あらためてかみしめられる大会になるといいですね。

執筆:田澤健一郎 編集:松尾奈々絵(ノオト)

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著者:田澤健一郎

1975年山形県生まれ。大学卒業後、出版社勤務を経てフリーの編集者・ライターに。野球を中心とするスポーツ、建築、歴史などの分野で活動中。